[記事] フォトグラファーの3.11

この地で生きる

陸前高田市街地

 2011年8月、岩手県陸前高田市の宿で、パソコンに向かいその日取材した内容を整理していると、ハーモニカらしき音が遠くで流れるのが聞こえた。ロビーで誰かが演奏しているのだろう。その曲は ”Home, Sweet Home”、邦題は ”埴生の宿” だった。何度も何度も繰り返すその演奏を聞きながら、僕は胸に込み上げてくる感情が何なのか分からずにいた。幾度となく足を運んだこの数ヶ月を振り返れば、言葉に出来そうな気がした。

 2011年4月4日、僕は初めて岩手県陸前高田市の市街地を訪れた。仙台からの道程、沿岸部は通行止めが点在していたが、意外にも内陸部は各地に向かうのに最低限の道路は整い、燃料も確保できた。

 高田市街地はおよそ基礎だけになった ”元家屋” と、それを上回る存在感の瓦礫の山が道なりに続いた。地面に横たわる道路標識は市街地を示していたが、目の前の光景からは、元の姿を想像することが出来そうになかった。そんなとき、道の脇に積まれた瓦礫を一人で整理する男性と出会った。

 74歳の彼は、毎日ここで自分の義母を捜しているのだという。自衛隊の方が瓦礫を切り崩し、行方不明者を捜してくれている。それでも、まだ手のつかない瓦礫の山がこんなにある。だから危険を承知で、手作業で整理しているのだと話してくれた。

「お義母さんが待っているから」と言葉にした途端、目を真っ赤にする。

 24歳の時に母を、35歳の時に父を亡くしたが、そのときは泣かなかったんだけどね、今回は考えるだけで涙が出てしまう、という。肩を小さくして今にも崩れてしまいそうな彼を、僕はそっと抱き寄せた。いたわりや共感に似た衝動からだった。しかし、同時に、自分は辛そうな彼の顔から逃げたのではないか、言葉に蓋をしたのではないか、僕は何者で、なぜ彼を傷つけるのだという思いが頭を離れなかった。事実、頷き、静かに話を聞くことしかできない僕は、無力だった。後日、知人が彼の義母が見つかったという記事を新聞で読んだと知らせてくれた。本当によかった。そう思う。

 歩け、問題意識を持て、伝えるために来たのだろうと自らに問うた。災害取材は初めてだった。だからこそ、自分の存在が暴力になりうることを強く意識したいと思った。僕が話を伺うことで、カメラを持つことで、街を歩くことで傷つく方がいるかもしれないと何度も考えた。それだけは忘れないで行動しようと決めた。

 車は市街地を離れ、陸前高田市の南端に位置する沿岸集落へ向かった。大手メディアではなく、個人だからこそ出来ることは何か。それをずっと考えていた。

焚火

 岩手県陸前高田市気仙町長部地区にある要谷集落と双六集落。両集落ともに、壊滅的な被害を受けたと報道され続ける陸前高田市の市街地と、気仙沼市の間に挟まれるように位置している。電気、ガス、水道が使えないものの、津波から難を逃れた公民館をそれぞれ避難所として運営していた。自衛隊や各地から来る給水車は飲料水用、山水は入浴場や洗濯用に使った。薪で湯を沸かし、陽が昇れば起床、日が暮れたら就寝というリズムが出来ていた。

「そんなへっぴり腰じゃ、割れねぇ」

 ボランティアに来た大学生は、集落の男性に薪の割り方を教わった。これに限らず避難所では、誰もが生活力を学び、共有する場所となった。

 要谷公民館避難所で寝泊まりをするのは約30名。このうち、男性陣が崩れた家屋の廃材を持ち寄り、焚火をしながら夜間の警備を担当した。寒さの厳しいこの時期、他の避難所でも同じように皆が白い息を吐きながら、焚火を囲む姿が見られた。

 昼間、彼らは市内に点在する遺体安置所を巡り、瓦礫の中の家財を整理し、子供の面倒を見て、集落のために山水を汲みに出かけた。各家庭へ物資を配達し、連絡事項があれば自分たちの足で伝えるのだから、陽が沈む頃には疲れもピークに達する。それでも、誰一人として苦言は言わない。

 避難所横をポツリと照らす焚火の光。慌ただしさから解放される時間。想いが巡る夜。集落の男性はゆっくり私に語ってくれた。

「復興は絶対する。自分には子どもがいる。いくら津波でやられたからとはいえ、この地で子供を育ててやりたい気持ちは変わりはない。家は流れたけど、何とか踏ん張る。」と。

 小学校は丁度春休みで、まだ始業式/入学式の正式な日程も決まっていなかった。繰り返される余震と津波の再来を恐れ、この地を去る家庭もあるかも知れない。それでも、今もなお、この地で生きようと決意する人がいることもまた事実だった。

 震災から約1ヶ月。仮に、多くの喪失感を強制的に整理することが求められ、共同生活を送るが故に、言葉を押し殺したり、気丈に振る舞ったりすることがあったとしたら、その反動をどう支えることが出来るのだろうか。

 避難所の下で、静かに闇と混じり合う海を見た。明日になれば、また朝日が瓦礫を照らすだろう。ある人は、悲惨な光景や写真は見たくないと目を背けるかもしれない。辛いと。でもどうか、くる日もくる日も、崩れた自分の家を前にしてもなお、そこで立ち上がろうとしている人がいることにも想いを馳せてみて欲しい。そう思う。

 僕は避難所から見下ろす広田湾のずっと先の暗闇に、昇る朝日を想像してみた。ここの朝は早いぞと、誰かが後ろで言う声が聞こえた。

避難所

 午前4時半頃、日の出よりも早く要谷公民館避難所の朝が始まる。各世帯の代表者や避難所生活をする人たちのうち、女性は4交代で炊き出しの準備を始め、男性は山水を汲みに車を数往復した。5時半をまわると避難所に地方新聞が数報、無償で届けられ、大人も子供もこぞって紙面に目をやった。東北各地の現状や、今後の自分たちの生活を意識する瞬間だ。とはいえ、前日の野球結果もまた、子供たちにとっては明るい話題の一つだった。

 電気を使えない当時の情報源はというと、毎朝届く新聞、陸前高田市発行の紙面「広報りくぜんたかた」、市からの通達文書、そして完全な口頭伝達だった。携帯電話については各社で電波状況が大きく異なり、使えないことも多かった。

「必要な情報は、新聞や人伝いで伝わってくっからさ。大丈夫だ。」と集落の男性は笑う。

 要谷区長の携帯電話が鳴る。NTTドコモ社から、2台の携帯電話が集落用に無償で提供されているという。自分が席を外すときは、もう一台を他の者に渡して、連絡とれる人を必ず集落に置くようにしていた。

 気仙町長部地区に全国から届いた物資は、長部小学校体育館に一旦集約された。市職員からなる数名のスタッフが、それらを各避難所宛に分配し、その後は各集落に任す形だ。衣類や靴などは性別/サイズ別に整理し、体育館の床一面に並べられ、4月5日より本格的に被災者に広く解放している他、今後は仮設住宅入居時に優先的に配布されるとのことだった。

 各集落(各避難所)の運用は様々だ。双六集落は事務局など担当役職を細かく設けて組織的に運用していたし、要谷集落は実質的な窓口/最終判断は集落の長たる区長が行い、彼の判断に基づいて、数名の代表者が全体を切り盛りしていた。

 決して、何が理想的なシステムかという話ではない。いずれの集落も共通して、地震以前から使われていた班分け(6~10世帯程度)制度を踏襲し、臨機応変な対応をしていた。昔からの地域の人間同士のつながりが、この窮地において全てを支えていたのだ。

「この前までは、皆で分け合う食料が欲しかった。それが足りると今度は電話。集会を開くとなると紙が欲しくなり、その次はパソコン、プリンター。欲というのは止まらない。人間ってそういうもんだね。」

 4月も中旬を迎えようとしていた。少なくとも、この地域の各避難所には、食料物資がほぼ問題ない量備蓄されていた。食料供給が第一急務とテレビ等で伝えられていた時期だった。僕もそれを予想していたが、ニーズは日々変化していることを目の当たりにした。もちろん、他の地域ではもっと切迫した状況だったかもしれない。地域によって様々なニーズの違いがあるという認識こそ、支援を考える上で最も大切なのではないかと僕は感じた。