[対談] 矢萩邦彦ダイアログス

佐藤慧×矢萩邦彦「伝えることの意味」

LIVEonWIRE_JOURNAL編集長、矢萩邦彦による参加ジャーナリストとの対談第一弾は、矢萩邦彦が代表を務めるstudioAFTERMODEに所属する佐藤慧さん。対談は佐藤さんがザンビアでの長期取材を終えた2012年3月に行われました。

主観的なジャーナリズム

矢萩:慧君、久しぶりの対談ですね。昨年は、息つく暇もなかったかと思います。最後の対談は震災の前日、ザンビアと横浜を繋いででしたね。

佐藤:あっという間の1年でしたが、振り返ってみるとどの日々も非常に濃いものでした。

矢萩:その密度や質感は、紡がれる言葉に凝縮されていますね。僕は1年間、慧君の言動を見ていて、一番変わったな、と思うのは「言葉」でした。内面が変わればやはりそれを映し出す言葉も変わるのでしょうね。僕自身も、以前にも増して言葉に対して誠実でありたいという思いが強くなったように思います。言葉のズレは、受け取ってくれる相手の内面にズレて伝わってしまいます。切実であるほどに、真摯にならざるを得ないんですよね。相手も自分も傷つけてしまうかも知れない。言葉が器だとして、僕はそれに纏わる実感こそが中身だと思っています。不思議なもので、中身の伴わない言葉は、どんなにレトリックを駆使しても、上滑りしてしまって、どこか軽薄な印象になります。

佐藤:言葉を相手に届けるには、自分自身がその言葉と正面から対峙しなければいけないということを痛感しました。特に、愛や死、希望といった、表面上はみなが知っているような言葉でも、真に考え、伝えるためには、人生そのものを搾り出す必要があると思います。

矢萩:そういう意味もあって、僕はジャーナリズムにもっと主観を受け入れるべきだ、と感じているんですね。客観的事実から心を動かすのは大変です。しかし、報道の役割の一つには、失敗を繰り返さない戒めとしての側面や、成功を取り入れて未来へ繋いでいくという側面があると思うのです。その時に、人を感動させるのは、やはり「主観を伴った人」なんだ、と考えています。

佐藤:主観の無い言葉に何か意味が含まれているとは思えません。言葉とはそれ自体が意味を持つのではなく、伝え手の意志を伝播するための箱のようなものだと思います。

矢萩:そういう意味で、この『LIVEonWIRE_JOURNAL』は、ジャーナリスト一人一人の顔が少しでも伝わるように、本気で伝えようとしていることが分かるように編集していきたいと思っています。

佐藤:そうですね、全ての言葉に、それを紡いだ人間の意志と責任が織り込まれるような、そんなメディアとして在って欲しいですね。

「伝える」の先

矢萩:さて、慧君の「伝えたいこと」は、記事に十分詰まっていると思うのですが、あえてこの場で伝え直すとしたら、どうでしょうか?

佐藤:僕の記事や写真をひとつのきっかけに、それに触れたみなさんがそれぞれの意志を持って何かを考えてくれたら、と思います。「これが正しい」、「これはこういうものだ」、「それは間違っている」と書くことは出来ますが、それは何かを伝えたことにならないと思います。伝えるということは、その相手にも同じ土俵、同じ視点に立ってもらい、そこから思考と感情をスタートしてもらう、そのきっかけに過ぎないと思います。

矢萩:ヒューム(経験論を先導したスコットランドの哲学者1711-1776)は「『である』から『べき』は導けない」と言いましたが、ジャーナリズムも同じで、それぞれがその対象に触れることで何を考えて、どんな価値観でも持たせてくれるような記事というのは、理想的だと思います。そう言ってしまうと、「何のためにジャーナリズムが存在するんだ?」ってことになってしまいそうですが、僕自身、本当に同じ土俵、同じ視点を感じてくれたのならば、そんなに大きなズレは生じないんじゃないか、と思っています。それでもしズレたら、それは多様性として受け入れたいですよね。

佐藤:僕はむしろずれが生じたって構わない、とも思いますね。他の人がどうかはわかりませんが、僕にとってジャーナリズムとは、伝えるという行為とは手段に過ぎません。十人十色の価値観の中で、様々な意見が生まれ、議論し合い、そうする中で「共生」への道を探っていけたらそれでいいと思っています。僕はこの世界、社会、人間に対する答えを持ちませんし、それらをより良いものにしていく方法も知りません。ただ、声を出し、意見を交換し、お互いの存在を認め合うことがその方法を導く出発点になると信じています。

矢萩:僕たちは、どうも出発点を想定すると、ゴールや答えを見ようとしてしまいますよね。「伝える」という連続性の中に在り続けることこそが大事なんでしょうね。

佐藤:答えとは誰かが出すものではないですからね、それぞれが答えだと思える生き方に近づいていくしかないのだと思います。「伝える」ということは、きっとその補助にしか過ぎないのでしょう。芸術や教育が、その人の内面世界を切り拓く鍵となるのと同じように、ジャーナリズムはその人自身が自ら紡ぐための言葉、その種となるものを蒔き続けることではないでしょうか。

矢萩:その通りだと思います。そういう意味で、全ての「方法」は持続の中で成長して、誰かから誰かへ受け継がれていくのだと思います。それは僕らアフタモードのテーマの一つですね。もう、対談の中に出てきた気もしますが、皆さんに聞いているので伺いますが、慧君の人生のテーマは何ですか?

佐藤:今までも色々な表現方法に触れてきて、ずっと何かを表現したいと思っていました。一体自分は何を表現したいのだろう、と随分考え、どうやら僕は「人間の生と死」について何かを表現したいのではないかと思うようになりました。これまでも身近な人の死に触れたり、世界各地でも理不尽に奪われていく命の傍らに居ながら、きっと僕はその不可解な命というものの意味、そしてそこから切り離すことの出来ない死というものがテーマなのだと思って来ました。しかし、この震災を経験し、もっともっと深く考えてみた時、どうやらそうではなかったということに気づきました。生というもの、死というもの、それ自体がテーマであるということももちろん言えるのですが、僕はそれらに関わるもっと本質的なもの、人間が持つ「愛」というものがテーマであると今は感じています。

「僕はこう思います、ところであなたは?」

矢萩:「愛」とは何か。チョムスキー博士は、それはそれぞれの胸にあるでしょう、と仰いました。違うことは問題ではなくて、「愛」というものに堂々と向き合うことですね。僕と慧君の話は、どうしても抽象的になってしまいますね。笑

佐藤:抽象的か具体的かというのは濃度の違いのようなものですからね。どちらも本質的には同じものだと思います。僕自身、愛とは何かということに答えは持っていません。ですが、それを問い続けながら生きていくことが、もしかしたら愛を生きる方法なのではないかと思っています。

矢萩:さて、では、最後にこの対談や記事を読まれている方々にメッセージと、慧君の今後の活動についてお聞かせください。

佐藤:講演や授業などをさせて頂く際にもいつも思うのですが、一方的に発信するというスタンスでは何も進まないと思うんですよね。なので、何よりその記事に触れた方、僕の表現に触れた方の声を聞きたいです。いうなれば僕の表現というのは問いかけのようなもので、「僕はこう思います、ところであなたは?」というメッセージなんですよね。なので、この『LIVEonWIRE_JOURNAL』という媒体を通して、少しでも多くの方と交流出来たらと思います。今後も、日本、世界を問わず、どんな対象に対しても、自分なりの生き方を持って接し、考え、その想いを伝えて行けたらと思います。

矢萩:そうですね。僕も草の根的ですが、「対話」と「持続」に最も力を感じています。インタラクティヴなメディアとして、一つの方法的道具になれれば良いですよね。では、引き続き前進しましょう。今日は有り難うございました。

佐藤:ありがとうございました。