[記事] フォトグラファーの3.11

三陸の味 ―養殖業再開へ向けて―

波が打ち寄せる作業場

 太陽光と、河川から流れてくる豊かな栄養分に恵まれた環境。存分にその恩恵を受けながら、何年もの月日を経て素晴らしく大粒で美味しい牡蠣が出来る。

「んめぇだろ?」

 日に焼けた男らしい顔つきが、しわくちゃに笑いながらこちらを向いた。

「でもな、これじゃだめだ。まだまだなんだ。」

 3月。沿岸部では雪こそあまり降らないが、仮設作業場であるテントの外は、冷たい風が吹いていた。はじめてここに伺い、この牡蠣を仕掛けてからちょうど半年が経とうとしていた。

 2011年8月下旬、僕は岩手県陸前高田市気仙町の長部漁港にいた。牡蠣の養殖再開に向けて地元漁師達が動き出していると聞いたからだ。

 東日本大震災以前は、18名がこの漁港を拠点として広田湾で牡蠣の養殖を行っていたが、2011年3月11日、地震と津波で船舶を含むの多くの被害を受けた。今後も養殖業を続けることを望む漁師たち9名は、残った数隻の船をシェアすることで、共同経営化し、養殖業再開に踏み切れたという。

 長部漁港は、漁協を筆頭にほぼ全ての建築物が骨格以外は全て破壊されているほか、地盤は約1.4m沈下し、満潮時には海水が道路を塞いでしまう。震災直後から激増した沿岸部のカモメの群れは、かなり少なくなっていたものの、地割れや水門の崩壊は残ったままだ。

 単なる明るいニュースを求めて来た訳ではない。「復興」の2文字が「震災」とつながり、美談として消費されることが少し怖かった。当事者はBefore-After間をワープすることが出来ないからこそ、その過程を追いたかった。

 この日の作業は、牡蠣の幼生を付着させたホタテの貝殻をロープに結び、海に仕掛けるというものだった。6月頃から、宮城県の松島から、このタネを仕入れ始めたという。

 瓦礫に囲まれた作業場の中には大きなテーブルがあり、貝殻が山積みにされ、ねじり結われたロープの一部を一瞬でほどいて隙間を作っては、ここに貝殻を挟み込む。熟練の作業は、驚くほど早い。貝に付着した1cm 大の小さな牡蠣のタネが、あのゴツゴツとした殻をまとった牡蠣となる姿が、僕にはまだ想像出来なかった。

 兄ちゃんはどこ出身って? ありゃ徳島か!!鳴門ワカメとか渦潮だな!養殖業に就いている男性の多くは、もともと遠洋漁業で日本中を行き来した経験もあり、各地の料理や地名に詳しく、話が尽きない。阿波踊り躍りましょうか?と言うとケタケタと笑ってくれたのが嬉しかった。

 こぼれ出る話は、昔のことから、徐々に昨日今日のことにうつって行く。

 震災直後から環境は大きく変わっておらず、作業する場も整っていない。ニュースで毎日のように放射線の風評被害について報道されていたこの時期、いや、それ以前の6月からすでに実直に養殖をもう一度やろうと立ち上がり、仕入れを始めていた方々の心情を、どうしても知りたくなった。突き動かすものは何なのか、と。

三陸の味

 同地域の養殖方法は、マガキ及び岩ガキの延縄法によるもので、例年では生食用殻付カキ70万個、剥き牡蠣50~60トンを出荷していた。丁度、東日本大震災が起きた3月11日も、水揚げと出荷を行っている時期にあたり、津波で出荷を控えていた残りの牡蠣(年間水揚げ量の3割弱)が流されてしまったという。

 カゴ一杯のロープに結んだタネを積み込み、船は漁港を出て広田湾を直進した。

「海の景色も一変した。昔はこんなんじゃなかったんだよ。」

 言葉の意味を計りかねた。前方には多くの浮きだるが浮かび、この間に先ほどのロープを1本ずつ垂らして行くことになる。僕は最盛期のここの景色を知らない。でも、彼らには、先代から引き継いだり、自分たち各々が試行錯誤しながら築き上げてきた養殖場の景色が見えているのだ。

 カキの養殖は、大きく分けて「採苗」「抑制」「本垂下」「育成」の過程を経て出荷されるのだが、現在はまだ「採苗」の直後の段階だ。今、海へ仕掛けているタネも、8月末時点でまだ目標の6割程度だという。生食用の殻付牡蠣は養殖開始から出荷まで約3 年を要し、利益回収まで大変な年月だ。

 平成23年4月、農林水産省より、水産業復旧対策のための予算が発表された(平成23年度農林水産関係補正予算)。続く7月には水産業共同利用施設復旧支援事業を発表し、漁協・加工協等の水産共同利用施設の機能の早期復旧・修繕に必要不可欠な機器等を整備するため、岩手県に対し補助率2/3とすることを述べた。

 岩手県も同年8月に「岩手県東日本大震災津波復興計画」を策定。漁業協同組合を核とした漁業、養殖業の構築と、中核的な産地魚市場の再開/安定的運営のための施設・設備・機器の復旧・整備、そして漁港等の整備を掲げるなど、徐々に復旧に向けた補助体制が築かれつつあった。

 しかし、お金の話だけではない。つい最近仮設住宅に入居したばかりの人もいるのだから、これからの道程は厳しく、様々な思いが入り交じって当然で、単なる資本と人海戦術だけでは復興が進まないことは容易に予想出来た。

 非常にぶしつけながら、放射性物質の被害について訪ねると、

「原発のことは皆理解している。出荷できるまで、正直どうなるか分からない。」

 少しうつむき加減で男性はそう答え、それからまっすぐこちらを見て、こう続けた。

「ただ、三陸で採れる牡蠣が市場に流れなくなることで、皆さんにこの味を忘れて欲しくない。2年後、3年後になっても、ここにしかない味を待ってくれている人に、何とか届けたいという一心なんです。」と。

 岩手県は、リアス式海岸に恵まれた地形を活かした牡蠣の養殖を古くから行っており、生産量は全国第4位。湾内の水質の良さと、牡蠣の餌となる植物性プランクトンが豊富で味には定評があった。

 生産者として、そして海に生きるものとしての誇りと、そして何よりそれを受け取ってくれる人たちへの熱い思いが、彼らを支えていた。

共同のロープ

 翌日、貝を挟み込む前の状態、ロープの作成に立ち会わせて頂いた。午前中といえど、照りつける日差しは強く、自然と汗のにじむ日だった。

 津波の被害は漁港や船舶に留まらず、カゴや出荷用のトラック等にも及んだことを伺った。共同経営化に伴い、手元に残った資材を皆が持ち寄ったが、以前は各漁師が100 個以上保持していたカゴも、今は全部で約20個。今の時期に必要不可欠なロープも手に入りにくいという。

 それでも今回の養殖再開につながった大きな原動力のひとつは、船が数隻残ったことだ。それらの多くは、漁師達が地震直後に広田湾中央部へ船を走らせ、津波と引き潮にもまれながら自分の船を必死で守ったのだという。

 津波がきた時に沖に出るというのは、僕も小さい頃に漁師だった祖父から聞いたことがあった。しかし、実際のそれは、想像を上回るものだったようだ。

「あんな大きな海鳴りは生まれて始めて聞いたね。」

 船に打ち寄せる今までに体験のしたことの無い規模の波。大きく揺れる船上で、いくつもの流されて行く家屋と人々の声に直面したという。

「自分には何もできなかった。本当に地獄だね。」

 何度も引き潮に引っ張られながら、前進することも出来ない、流される訳にも行かない、まさに格闘だったという。

 作業場の脇には、傷だらけの浮きだるや、牡蠣を水揚げする際に使用する器具が集められていた。

 本漁港では延縄法という、長さ70m程度の2本のロープの間に浮きだるを取り付け、このロープに垂下連(牡蠣の幼生を付着させたホタテ貝を連ねたもの)を垂らして行う方法が用いられている。この方法は比較的耐波性が高いので、風波の強い湾口や沖合が養殖の場所だ。

 熱い日差しを受けながら、ロープを焼き切っては並べ、結び、1本ずつまとめていく。垂下連の長さや、それを仕掛ける間隔は、各漁師の腕の見せ所として創意工夫されていたが、今回の共同経営化に伴い現在は基準を統一して行っているそうだ。

 船の大きさ、ロープの長さ、作業一つ一つに各々のノウハウとプライドがあるであろう姿に、もしかしたら共有化/統一化による歯痒さみたいなものがあるのかもしれないと、勝手ながら想像した。

 牡蠣は、岩について固く固く殻を閉ざす貝だ。他の貝類と異なり、砂にもぐったり泳いだりしないが、運動に栄養を使わない分、耐える力が強い。1 日約200リットルもの海水を吸収しながら、体内でじっと凝縮・蓄積することで、貝類の中でも飛び抜けた栄養価を誇るわけだ。

 現在養殖中なのはマガキで、剥き身用は2012 年の10 月、生食用殻付および加熱用牡蠣は2013年の10月に出荷することを目標としている。その間には単年で収穫出来るワカメや昆布の養殖も控えている。

 これから、牡蠣の種苗は彼らとともに海で過ごす。水揚げされるその日まで、皆が結んだロープに連なりながら。