[記事] 私たちの住む世界

壁の向こう側 ―隔たれるイスラエルとパレスチナの今―

 耳をつんざくような轟音を立て、イスラエル軍の戦闘機が頭上を飛び交う。街のあちこちでは、鈍く光るライフル銃を肩に提げ、緑色の軍服に身をまとった兵士がたむろする。街の遥か彼方には、黒煙が高く立ち昇る。戦争の影は、確かに自分のすぐ足元にまで忍び寄っている――。

 2012年2月、イスラエル。イスラエル・パレスチナ紛争の取材をする為に初めて訪れたこの国の第一印象は「街の隅々まで整備された近代的な都市」だった。首都テルアビブにはモダンなデザインの高層ビルが立ち並び、街中は清掃がきちんと行き届き、至る所にレンタル・サイクルや資源リサイクルのステーションが見受けられる。人々は信号をきちんと守り、バスの席を譲り合い、秩序正しく生活しているように見える。

 「完璧な街に見えるだろ」

 テルアビブのバーガーショップで働くアラブ系イスラエル人の男が、レジから身を乗り出し声をかけてきた。

 「一見すると安全で美しい街だが、それはただの見せかけだ。俺達は日々、とてつもない抑圧のもとに生きているんだ」

 彼の発したその言葉の意味を自分が本当に理解するのは、暫く後のことになる。

アパルトヘイト・ウォール

 「見えた」

 聖地エルサレムの中心街からバスで揺られること約20分。道の遥か先に、無機質な灰色の壁が立ちはだかるのが見えた。

 分離壁。――別名、アパルトヘイト・ウォール。イスラエルとパレスチナ自治区ヨルダン川西岸地区の境目に今も設置が進むこの壁は、「テロリストのイスラエルへの侵入を防ぐため」に、イスラエル政府によって建設が始まった。完成すれば全長700kmにも及ぶこの壁のことを、イスラエル側では「セキュリティ・バリアー」と呼んでいるが、国際社会からの評判はとても良いものとは言えない。2003年10月21日に壁の建設の中止と撤去を求める国連決議が出され、翌2004年7月9日には国際司法裁判所の勧告が出された。その後もイスラエルは構うことなく、現在もこの壁の建設を続けている。

 パスポートの表紙をちらりと提示するだけの、ほぼノーチェックで分離壁に併設された検問所を通過後、パレスチナ自治区ベツレヘム市に入った。

 三階建ての家屋ほどの高さの分離壁にパレスチナ自治区側から対峙すると、それはイスラエル側から見るのとは対照的に、無数のカラフルな落書きで埋め尽くされていた。よく見るとその多くが、パレスチナの独立や自由を願ったもの。一つひとつの絵から、土地を奪われた民の憎悪、苦しみ、自由を渇望する叫びが聞こえてくるようだ。

ラナー

 壁沿いにしばらく歩くと、一人のパレスチナの少女に出会った。彼女の名はラナー、8歳。分離壁を呆然と見上げる自分の周りを元気に走り回る彼女に、「この壁、大きいね」と話しかけた。途端に少女の表情は、その年齢には到底そぐわぬ大人びた、諦観の色にも似たものに変わり、「うん、すごくすごく、大きいんだ」と消え入りそうな声で呟いた。

 こんな小さい子が、自分ではどうとも出来ない無力感に打ちひしがれていると思うと、目の前にそびえ立つ分離壁が、コンクリートの板に姿を変えた悪魔のように見えた。

 「見えるか? この壁はあの丘のずっと向こう側まで続いているんだ」

 道の向こうから、ラナーのおじいさんが話し掛けてきた。分離壁のすぐ傍に暮らす彼等一家は、分離壁に描かれた落書きのポストカードやポスターを売り、生計を立てている。店の中で、壁の落書きではないパネル写真が数枚立てかけられているのに、ふと気がついた。

 「それは売り物じゃないよ。10年前の第二次インティファーダ(パレスチナ人による民衆蜂起)の時の写真だ」

 そこに写し出されていたのは、火の手の上がるベツレヘム市街、子どもの亡骸を前に悲嘆にくれる老女、エルサレム旧市街を占拠するイスラエル兵士達の姿だった。

 「ひどいだろ」

 彼は写真を見据えながら、静かにそう漏らした。壁を挟んだ向こう側からは全く見えなかった現実が、こちら側に足を踏み入れた自分に巨大な渦となり、突如として襲いかかる。怒り、嘆き、苦悶、憎しみ、ありとあらゆる負の感情が、全身をねっとりと重く包み込むのを感じる。「何故?」という問いだけがひたすら、自分の頭の中を堂々巡りし続けていた。

望郷の民、越えられない壁

 分離壁沿いにつくられたアイダ難民キャンプを訪れると、大小様々の無数の穴が建物の壁という壁に穿たれたのが目につく。2002年の第二次インティファーダの際に侵攻してきたイスラエル兵による攻撃の跡だ。分離壁に沿って歩く横には、ブルドーザーによって破壊された住居の瓦礫の山が、遥か先まで延々と続く。未だに残る暴力の爪痕を見て、なんともやり切れない気持ちになった。

 地元に住むモハンマド(27)は、10年前にここで起きた事を、こう語る。

 「ここに住む多くのパレスチナ人にとって、第二次インティファーダの経験は、人生で最も強烈な経験となった。あまりの恐怖で、自分もその時の記憶が曖昧になっているほど。多くの人が、精神を病んだ」

 当時4,000人のイスラエル兵と戦車、攻撃ヘリコプターがベツレヘムに押し寄せ、動く人影とあらば、すぐさま銃撃したという。20日間の攻撃の後3時間の停戦があり、その後再び20日間の攻撃が行われた。その間彼は、家族とともに部屋の奥でじっと息を潜めていたという。

 この約一ヶ月間の攻撃で、約300人が殺害された。激しい砲撃を受けて穴だらけになり、鉄骨がむき出しになった建物を見上げながら、彼は怒りに満ちた表情で訥々と言葉を絞り出す。

 「俺たちは皆、同じ夢を持っている。あの壁の向こう側にある、無理矢理奪われた土地に帰ることなんだ」

ムハンマド

 彼の家を訪れると、先ず目に入ったのは、アル・アクサ・モスクが描かれた大きな刺繍だった。この金色に輝くモスクは、ムスリムが非常に神聖視するもので、2002年にイスラエル外相であったシャロン(後に首相)が1,000名の武装した側近と入場したことがパレスチナ人の怒りを買い、第二次インティファーダの契機になったほどだ。

 モスクはイスラエル領エルサレム旧市街に位置する為、パレスチナ自治区に住むパレスチナ人が訪れるためには当然、分離壁を越える必要がある。しかし多くのパレスチナ人にとって、この壁は「越えられない壁」だ。

 分離壁を越えてイスラエル領内に入る為には、検問所を通過しなければならない。しかしこの検問を通過するには、イスラエル政府が発行する通行許可証が必要とされる。この許可証の発行要件は、病院や国際機関等の特殊な職業に就いていること、もしくは30歳以上であることだ。

 「あと3年経てば30歳になり、この壁を越える許可が出る。その日が来るのが待ち遠しい。あのモスクで、気が済むまで祈りたい。それからイスラエル中を旅して、ヨーロッパを訪れて……」

 部屋に飾られたアルアクサモスクの刺繍を前にして、溢れんばかりの希望に満ちた表情でそう話す彼を横目に、多くのパレスチナ人が事実上「籠の中の鳥」として閉じ込められているという事実に、愕然とした。

 日本人である自分にとっては、この分離壁の検問はものの5分で通過できてしまう。しかし、移動を制限された彼らにとってはそうもいかない。

 検問所には、二十歳にも満たないであろうイスラエル兵が数人常駐している。彼等の内多くは退屈そうな顔をしながら、自分の祖父ほどの年齢のパレスチナ人が提示する許可証を一瞥し、顎でしゃくる。iPodで音楽を聴きながら、ゲームをしながら、友達との電話を楽しみながら。

 アラブの文化においては、年上に対してこのような態度を取るのは非常に不敬なこととされる。しかし老いたパレスチナ人は、自分の孫ほどの齢の彼らを前に引きつった愛想笑いを浮かべて、許可が降りるのをじっと待つ。彼は、イスラエル領内の出稼ぎ先に向かわなければならないのだ。自分の稼ぎを待つ家族の為にも、何としてでもこの壁は越えなければならない。この屈辱にかえてもーそんな心の叫びが、僕の耳にまで聞こえてくるようだった。

暴力の応酬

 エルサレム滞在中、BBCから報じられた緊急速報が目に飛び込んだ。

 「パレスチナ自治区ガザ地区で空爆、一般市民4人死傷」

 ガザ地区といえば、此処からたった60kmの距離。車を走らせれば1時間ほどしかかからない。そんな目と鼻の先の距離で、音速で飛ぶ戦闘機が、鋭い音を鳴らして空を切る爆弾を投下した。それは地上で炸裂し、四方に飛び散った無数の金属の破片が71歳の農夫と、牧場で草を食む数頭の牛の身体を切り刻み、4人を負傷させた。

 イスラエル軍の公式発表では、この攻撃は先日のパレスチナ武装組織によるイスラエル南部へのロケット弾攻撃に対する報復行動で、テロリスト及びテロ関連施設を標的としたものだったという。

 ――農夫がテロリスト? 牧場がテロリスト関連施設?

 コンピューターのスクリーン上に浮かべられた文字をいくら目で追っても、ちっとも理解することができない。「一体、何がどうなっているんだ?」頭がただただ、混迷を深めるだけだった。

 その日、イスラエルのネタニヤフ首相はこの攻撃についてのコメントを控え、イスラエル紙も一切報じることはなかった。イスラエル政府と国内メディアは、その事実を完全に無視したのだ。

 しかし、後日パレスチナ自治区ヨルダン川西岸地区で、悪天候によりスクールバスが横転炎上、幼児多数が死亡した時、その態度は一変した。ネタニヤフ首相は深い哀悼の意を表明、国内メディアでも大きく取り上げられた。同じパレスチナ人の死でも、空爆によるものと交通事故によるものとでは、これほどにも扱いに差が出る。その事実に、戦慄が走った。

 差別される命。
 平然とまかり通る暴力。
 日常化した、暴力の応酬。

 ふと、ヨルダン川西岸地区で言葉を交わしたパレスチナ人のある男の言葉が、頭をよぎった。

 「パレスチナ人は”テロリスト”になるしかないんだよ。土地を奪われ、貧しい生活に追いやられ、移動の自由もなく、頭の上には毎日のように爆弾を落とされる。俺達の存在は、無視されているんだ。他に、一体どんな方法がある?」

 彼のように考える人が、パレスチナ人に限らず、この世界に一体どれだけいるのだろう。そう思った瞬間、現実感が次第に薄らいでゆくのを感じた。そしてこの美しい国が突然、何か屈折した、不自然につくり上げられた社会のように感じられた。表面上は完璧に見えても、水面下では、抑圧され続ける人々が、確かに存在している。

 ラクダの背の上に一本、また一本と載せられ続けられる藁。この国、そして世界は、ラクダの背骨が圧し折られるカタストロフィへと刻一刻と向かっているのではないか。そしてそのカタストロフィへと導く藁を置き続けているのは、もしかしたらこの自分自身なんじゃないか――。

 そんな想像に自分の思考回路の隅々まで支配されてしまいそうになり、その考えをすぐに頭から追いやった。

無知より生まれ出る暴力

 「我々ユダヤ人は、平和を心から望んでいる。でもその平和の形は、パレスチナ人が思い描くようなものではないんだよ。パレスチナ人が土地を『取り戻し』、イスラエルになだれ込んだら、純粋なユダヤ国家は崩壊してしまう。我々の所得も激減する。妥協は出来ないんだよ」

 「どうして国際社会はイスラエルやアメリカの言うことを全て信じてしまうの? 私達アラブ人の全部が全部、テロリストなわけないじゃない。私達は国際社会から孤立無援。私達はただ、平和に暮らしたいだけなのに」

 「ユダヤ人の私にとって、パレスチナ自治区で起きていることは本当に悲しいことだよ。でも正直言って、一般市民である俺達には関係ないよ。それは政治家が考えることだろう」

 「この地に和平は決して訪れない。ユダヤ人は、俺達パレスチナ人が暮らすこの地を奪い、入植したことをちっとも恥じてなんかいない。対話など、不可能だ」

 世代を越えて、そういがみ合ってきたイスラエルとパレスチナ。双方の人々に話を聞くうち、気がついたこと。それは、対話の場が決定的に欠如していることだ。

 それは無理もないことで、パレスチナ人はイスラエルへの入境を厳しく制限され、2012年2月現在イスラエル国籍を持つ者は全て、パレスチナ自治区への入境を禁止されている。要はお互いが何を考えどう思っているのか、直接は知らないのだ。メディアや教育を通して、あくまで人伝いに聞いているにすぎない。

 イスラエルという国は国際社会において非常に好戦的なイメージがあるが、その国民一人ひとりと話すと、穏やかで、思いやりがあり、思慮深い人が多いという印象を受けた。そんな善良な彼らも、政治や教育を含む、社会のシステムの中に組み込まれその一部となった瞬間、攻撃的になってしまうのではないだろうか。イスラエルは徴兵制度をとっており、原則として高校を卒業した者全員が3年間の兵役に就く。ライフル銃を肩から提げている者の多くは、まだあどけない顔をした少年少女なのだ。

 彼らは軍服を身にまとい、武器を肩から提げているものの、休日にはショッピングモールでキャンディを袋詰めにし、アイスクリームを舐め、映画館で恋人とデートをする。日本の大学生と、何ら変わりはない。彼らはただ、自分が何をしているか知らないだけなのではないか。無知より生まれ出る暴力。それは、僕達が毎日手にする携帯電話に使われている鉱物が、回りまわってアフリカの内戦の資金源になり、何万もの人を殺す銃弾になることと、どこか似ている。

 この自覚されることない暴力は、本質的にどこにだって存在している。相手が何を必要としているかを考えずにただ自分が言いたいことを言うだけのアドバイス。ロクに話したこともないのに「君ってこういう人だよね」という偏見。決めつけ。いじめ。我々の多くにとってそれは決して、他人事などではないのだろう。

 一体、何処からこの無知の暴力が生まれるのか。それはきっと、相手の立場に立って考えることを放棄することから生まれるのだろう。相手の気持ちに対する想像力の欠如、そして「そんなこと知らないし、知ったこっちゃない」という無知無関心が、人をとことん酷薄にしてしまうではないだろうか。

あちらの世界と、こちらの世界

 当たり前のようにまかり通る、ありとあらゆる形を取った暴力。人間と人間とが、世代を越え憎しみ合い、血で血を洗う世界。日本からたった20時間で行くことの出来る場所に、その世界は確かに存在する。その事を一度考え始めると、僕の頭は途端に思考を停止してしまう。

 その世界で現実として何が起きているのかは、もちろん知識として持ち合わせてはいるものの、自分にとっては全くの「異世界」である。そうとしか、考えられなかった。

 いまだ生々しく残る砲撃や銃撃の跡を現地で見ても、殺戮を目の当たりにした人の話を聞いても、リアルな質感を伴う現実として、そして自分と「同じ」人間が生きる世界として受け入れることは困難を極めた。

 彼等が生きるその世界が、自分のすぐ足元にまで影を落としているというのに、絶対に越えることの出来ない壁のような存在が邪魔をして、僕がその世界に足を踏み入れることを妨げている気がした。

 きっと僕は、彼等と同じ世界で生きることを、心の何処かで拒絶したのだろう。自分が彼等の不幸に加担しているという目を背けたくなるような事実を、直視したくないから。自分が生きる世界の秩序を、乱されたくないから。だから自分の世界と、彼等の世界との間に壁を作りあげ、隔離しようとする。それは人間にとって、ごくごく自然な心理的防衛機制なんだろう。

 しかし、あちらの世界には確かに抑圧に苦しむ彼等がいる。泣き叫び、自由を求める人間がいる。彼らが甘んじている悲惨な状況を変えるには、僕達一人ひとりが精神的に、こちらの世界とあちらの世界の間に高く築き上げた壁を越えなければならないと思う。あちらの世界に生きる彼等が、こちらの世界に生きる自分と「同じ」であることを本当の意味で理解すれば、人の心と心を分つ壁は取り払われる。その瞬間、自覚の無い暴力を生み出し続ける永久機関の歯車は、ぴたりと動きを止める。僕はそう、信じている。