[記事] フォトグラファーの3.11

この地で生きる 第2集

善意

 「善意の押しつけはいらない」

 それは僕が東北で伺った最も印象深い言葉だった。

 2011年4月9日、陸前高田市気仙町の長部コミュニティセンターからの案内で、理髪ボランティアが避難所を訪れた。ハサミを手に取る女性は、同町出身で美容室を営んでいたが、津波により店舗は破壊され道具一式を流失したそうだ。それでも何か出来ないかと思い立ち、知人を介して大阪の床屋からハサミやクシを譲り受け、この企画が実現した。この日までに約200名の理髪をしたという。「役に立ちたい」という衝動は、住む地や当事者如何に関わらず同じだと改めて感じた。

 またある日、避難所に炊き出しのボランティアが訪れた。早朝から、避難所生活者と消防団員の総勢約60名分の食事を用意する女性達に、少しでも休んでもらいたいという思いは素晴らしかった。しかし残念ながら、メンバーの大半は学生で、このような総数の料理を作る経験は浅く(普段料理しない者もいた)、手際よく進まず住民の手を借りる場面が目立った。仕事などで食事の時間が決まっている一部の住民にとっては、焦りもあった。もともと若者の少ないこの地で、彼らの心意気に喜び、笑い声がこだましたのは事実だが、これが毎日続けば助かるといったものでは無かったと思う。

 異なる集落でボランティアについて尋ねると、男性は少し難しい表情をした。

 「ありがたいよね。でもね、”何かすること有りませんか?”って突然来られても、ここじゃ特に何もお願いすることがなくて。困っちゃう」

 瓦礫の撤去に関して、重機がこの地に入る目処は全く立っていない。釘やガラスがむき出しの危険な状況が続いており、お願いするわけにはいかない。家財整理は個人が手作業で行っているものの、これも手伝ってもらいようがない。ありがたいのだけれど、断るしか無いとのことだった。この辺りの避難所を訪れるボランティアの多くは行政を介さない個人だ。場合によっては自衛隊よりも早く必要なものが届くという。しかし、物資がほぼ十分ある場合や、その場のニーズに沿っていない場合、事態は変わる。せっかくの善意からなる行動を断らざるをえない心苦しさと、山積みになった一日の作業に加え、突然、問い合わせ対応や確認・指示を迫られることが、精神と肉体いずれにも負担をかけているようだった。

 「善意の押しつけはいらない。きつい言葉だけどさ、ホントそうなんだよ」

 と、話して下さったある男性の一言は、切れ味の良い、実は優しい言葉かもしれない。ニーズに合致した互いの清々しい関係を求める姿勢がここにある。そして、それが崩れたときに悩む人を想う配慮もある。 ”ボランティア=完全に善なる行為”ではないとする一方で、あり方のヒントを提示したこの言葉は、以後、ボランティアの必要性について尋ねられた際に、僕の脳裏をよぎるようになった。この経験を多くの方とシェアできたらと、切に思う。

弥生人共同生活プロジェクト

 海側からトンネルを使って国道を横切り、いくつかの家屋を横目にやりながら角を曲がる。坂を上がれば陸前高田市気仙町の双六公民館避難所はすぐそこだ。そしてこれは、約1ヶ月前の東日本大震災時に津波が来た経路でもあった。

 避難所のガラス一面に張られた連絡事項と本日の予定。思いのほか人が少ない印象だった。聞くと、避難所は公民館だけでなく、民家の理解を得て間借りし、分散して運営しているとのこと。この周辺は家屋が残った人々が多く、昼間は避難所で過ごし、夜には自宅で寝泊まりする人が少なくないという。

 僕がここで驚いたのは、随所にアイデアと工夫があることだ。「全被災者相互補助」、「物資全戸配布、全戸自立」を理念として掲げるこの避難所の一日は、公民館前での朝礼から始まる。「みんな顔を合わさないとね。気持ちも内にこもっちゃう。」と代表の一人は言う。朝礼の前には代表者数名が情報共有し、連絡事項をまとめた。参加出来ない高齢の方に向けて、このあと掲示する手書き書面の文字を大きくし、朝礼そのものも聞き取りやすい声で進行した。連絡事項を伝え終えるとラジオ体操が始まる。実はこれも、日々変化する。ある日は誕生日の者が前に出て先導し、またある日は ” こどもの日 ” と称して、小学生が前に出て行った。

 体操前、皆の前で「普段何をやっていますか?」と聞かれた子供達は、恥ずかしそうに答える。

 「お母さんの手伝いと、妹の面倒をみています。」には拍手喝采だった。皆の目が優しい。

 朝礼の締めも特徴的だ。全員が「頑張るぞー!えい、えい、おー!」のかけ声と共に拳を空に突き上げる。うつむくまい、止まるまいと焦る気持ちと、突然の環境変化で疲れがちな体のバランスをとる、不思議な瞬間だと僕は感じた。

 この地域では一般的な、ストッカーと呼ばれる大型の食料保存用冷凍庫がある。電気が不通だったが、瓦礫から引き出して綺麗に洗い、夜、湧かしたお湯をここに貯めた。寒さの厳しい朝、洗面や食器洗いに使うお湯の保温庫にしたのだ。「避難所生活っていうと暗い感じがする。だから僕らは”弥生人共同生活プロジェクト”って呼んでいます。便利さもない、アウトドアな生活を共にやっている。プロジェクトってカッコいいでしょ」と代表の一人の男性が笑った。

 震災を通して、日本は何を学んだのか?という問いの答えに各国は注目する。復興の早さや規模そのものは、この答えにはならない。同時に、問いは各個人にも向けられる。子供達にとっては、共同生活のルールや家族の大切さかもしれないし、ある人にとっては、いかに家族と生き抜くか葛藤した日々の経験そのものかもしれない。ほかにも原発に対する意見が多く飛び交うだろう。でも僕は思う。弥生人の活力をもって生きられる広い意味での”生活力”も、親から子に、祖父・祖母から孫に直接見せながら出来た大きな学びの一つであったと。

高台で見たもの

「被災地の子供たちは、笑顔を失っていました」

 そう報道されることに、不安と、恐ろしさを僕は感じていた。これは本当かもしれないが、嘘である場合も十分ある。これまで物資の不足状況やボランティアのニーズがその土地土地で異なることを述べてきたように、イメージが先行することで「被災地」や「被災者」が大きな偶像になる気がする。

 僕が出会った子供達は、賢く、そして元気だった。午前中は、皆で肩を並べて勉強の時間。上級生はその下の学年の者を、同級生同士はお互いに教え合った。食事の前には全員の机と箸を用意し、午後は雨の日以外は外に出て遊ぶことが、その避難所のルールだった。

 2011年4月12日、高台で少年達に出会った。ここでは、倒壊した家屋が危険と共に広がっていたため、遊び場は高台だけと限定されていた。小高い丘を登ると、この地域一帯を望むことが出来る。丁度この日、ヘリコプターが広田湾の海上を飛び、ダイバー数名が海に潜って行くのが見えた。

 「今日の陸前高田市の行方不明者数わかる?」という少年の一言に、僕はハッとした。

 「千百・・・。うーん。今日の新聞にあったな」と他の子が続ける。

 岩手県災害対策本部によると、2011年4月11日午後17時時点で陸前高田市の行方不明者数は1,179名だった。数字の正確さ如何ではなく、彼らは彼らの世界で自分の置かれている状況を把握していたことに、そして、遊んでいる最中に、予想を超えた淡々とした口調で話すことに驚きを隠せなかった。

 避難所の子供達は、大人を困らせるほど泣きじゃくることはなかったし、暴れて手のつけられない姿は見たことが無い。元気にボール遊びをし、喧嘩し、漫画や野球が好きな普通の子たちだった。

 「自分の小さい頃なんかだと、間違いなく下に降りて怒られながらでも遊ぶんだけどね」と集落の男性は言った。「確かに」と、徳島県の田舎町出身の僕は思った。でもこの記事を読まれる方の多くは「とんでもない」というかもしれない。2011年4月下旬、まだ余震も続いていたのだから無理は無い。男性は、続く言葉を探した。

 「魚肉ソーセージの食い方なんか、教わらずに自然と出来るだろ?トマトにかぶりついた時に、こぼさずに食べる方法とかも、誰かに聞くもんじゃない。でも、今はこういうのも全部教わるもんみたいになってるんだよね」と。

 当然ながら、どの地に住む子供も、幼さの内側に様々な表情を併せ持つ多面体だ。大人達はもっと複雑で捉えにくい。そういうものだと思う。そのことを、「被災者」としてくくった時、忘れがちなのかもしれない。

 個々が抱える悲しみは計り知れない。避難所での共同生活や、未曾有の大災害の裏で、強制的に胸の内に押し込んだ気持ちは中々姿を現さないだけかもしれない。それならそれが事実であって、分かりやすいイメージストーリーはいらない。そんな思いを、僕は捨てずにはいられなかった。