[記事] 私たちの住む世界

伝統をデザインする ―三代目弓道家が狙い射るもの―

弓道家3人

蝉の声も穏やかになり、時たま涼しい風を感じるようになった夏の終わり、明治神宮内にある中央道場では、弓道の昇段・称号[*1]審査が行われていた。

日本全国から集まった弓道家数百人は皆着物を身に纏い、右手には鹿の皮で出来た「弓かけ[*2]」と矢、左手には竹で打たれた長さ2メートル以上の弓を携え、滞りなく粛々と弓を引き絞ってゆく。

どの射手も、矢が中っても外れても表情ひとつ乱さず泰然自若として、28メートル先に据えられた直径36センチメートルの的に向かって真っ直ぐに視線を投げかける。

審査会場の空気は、弓に強く張られた弦のようにぴんと張りつめ、矢が発射された時に弦が弓を弾く音と、矢が的に中る「タンッ」という乾いた音が時折響き渡るのみ。

この審査で引くことを許されるのは、たった2本の矢。

審査基準は的中数、入場から退場までの所作、そして筆記試験だ。弓を引くすぐ目の前では、この道を極めた範士5人が審査員として厳しい表情で目を光らせる。

ガラス反射

全国から集った弓道家達は緊張の色を浮かべ、瞑想をしたり弓道具を調整したり、めいめい思い思いの方法で集中を高め、自分の順番を待つ。

その中に、既に行射を終えて道場から出てきた、黒紋付縞袴姿の若い男性がいた。愛知県名古屋市から来た宇佐美雅士氏(34)だ。現在5段の彼が、「錬士」の称号審査を受けるのは今回で3度目。

「まさか、審査員によりによって自分の親父があたるとはな」

今回雅士氏を審査することになったのは、審査員席でひときわ鋭く眼光を光らせている宇佐美義光氏(67)、偶然にも雅士氏の父親だ。現在愛知県弓道連盟会長である義光氏は弓道範士八段で、過去に全日本選手権で優勝し、父親もまた範士だったこともあり、弓道界では名が知られる存在だ。

「プレッシャーだよな。範士の息子っていうのはさ」

雅士氏はそう、呟く。

範士の息子

マサシ弓

名古屋の中心街から歩いてほどない場所に、宇佐美家は明治時代から続く店舗「弓道具商翠山」を構え、弓道具を販売する。同じ敷地内に弓道場も併設され、入門した門下生が連日連夜稽古を重ね、義光氏が直々に指導をしている。

宇佐美家は明治時代から続く「弓道具商」、「弓道家」そして「弓かけ師」の家系で、雅士氏で三代目になる。

雅士氏が初めて弓道に触れたのは、彼が5歳のころ。父の姿を見よう見まねで弓を引いたという。高校卒業後は首都圏の大学に進学し、弓道を専攻。卒業後は都内のアパレル会社に就職し、前途有望なサラリーマンとして華やかな生活を送っていた。しかし、6年間の勤務の後、家業を継ぐことになる。

「父親に何度も『継いでくれ』って頼み込まれたんだよ」

仕事は軌道に乗っていたが、父の情熱を感じた雅士氏はしばらくして会社を退職。名古屋に戻った後、国内で数少ない「弓かけ師」になるべく義光氏のもとで修行を始めると同時に、弓道具商の経営にも携わるようになる。

そんな経緯があって弓の道に入った雅士には、胸に秘めた思いがある。

「翠山をただの弓道具商に留まらせておく訳にはいかない。正しい弓道、ひいては日本文化を発信する役目も担うんだ」

スポーツ化する現代弓道

宇佐美家が営む翠山道場では、正式な和装の着用と、竹弓竹矢などの伝統的な道具を使用することが奨励されており、現代弓道を後世に正しい形で受け継ごうとしている。

一張りの弓を手に取らせてもらうと、それはすっと肌に馴染み、その表面は光を柔らかく照り返す。植物からできた竹弓は気温や湿度、そして射手の癖に敏感に影響されるという。「弓は生き物であり、自分の悪い癖を教えてくれる先生」という雅士氏の言葉にもうなずける。

「こういうホンモノの道具を使うことで、弓道文化を未来に残していくことになる。現代では、今風の見た目だけの弓具を使う方も多く、売る側にも弓道のスポーツ化が進んでしまっている。”弓道”が多くの人に広まるのは良いことだけど、その正統性は失われてはならない」。 彼は、そう語る。

手アップ

弓道の歴史は、世界中で同じように古代に発明された弓矢に起源を持つ。戦乱の歴史を経て、それは遠くの敵を正確に殺傷する「弓術」として体系化された。しかしそれは江戸の300年に渡る平和な時代の中で、敵の殺傷というもともとの目的は消え、精神性、宗教性が発達していった。大正時代になると、国内における武道全般を取り仕切る大日本武徳会により名称が「弓術」から、国民の人格形成に資する「弓道」へと変えられた。

弓道が他の武道と比べて特徴的な点として、その「自己完結性」があげられる。それは、国内のほとんど全ての弓道場に掲げられたこの言葉に表れている。

「射は仁の道なり。射は正しきを己に求む。己正しくして而して後発す。発して中らざるときは、則ち己に勝つ者を怨みず。返ってこれを己に求むるのみ(礼記ー射義ー)」

すなわち、試合などで的を外して対戦相手に負けたとしても、それは全て自分に原因がある。相手が強かったなどと言い訳は出来ない、というのである。 弓道が「立禅」[*3]といわれる所以だ。日本で弓道を修練したドイツ人学者オイゲン・へリゲルも、彼の述書『日本の弓術』で、「日本人は弓を射ることを一種の「スポーツ」と解しているのではない。初めは変に聞こえるかもしれないが、徹頭徹尾、精神的な経過と考えている。」と考察している。

このように、当初は効率的に命を奪うための「武器」であった弓矢は、現代の日本においては人間的成長の「道具」として昇華させられたのである。

そして、第二次大戦後に競技人口が爆発的に増えるに従い、より多くの人が親しめるように的中が重視される競技に重きが置かれ、急速に「スポーツ化」が進んだ。

このような問題は他の武道においても起きる。たとえば柔道はスポーツ性の強い「JUDO」として世界にひろまり、「道」としての精神性を保つことが難しくなっている。オリンピックの試合で勝利後ガッツポーズして飛び跳ねる選手の姿が「惻隠の情[*4]を欠く」として問題になった。

「何か”道”をやるということは、道に則した道具を使う。それはルールではないが、モラル。人口が増えると、どうしても指導者の目が行き届かなくなり、そういう識別感覚を持たない人が増えてしまう」

より多くの人が親しめるようになる反面、その過程で「何か大切なもの」が削がれていってしまうのは、仕方が無いことなのかもしれない。

生き残るために、デザインを

そのような現状に対し、雅士氏は伝統文化をスタイリッシュに「デザインし直す」することで伝統を存続させようとしている。

「本来の伝統を継承している人は、弓道家も弓道具商も世間の理解を得ようとしない。いわば客を選ぶ職人の世界で生きている」。 排他主義に走ることで受け継いできた質は保たれるかもしれないが、社会からの支援を得られず、結局消えざるを得ないのだろう。

「敷居が高く、埋もれがちな”ホンモノ”こそ、スタイリッシュで世間の耳目を引くものでなければいけない」。そう語る雅士氏は、より多くの人に伝統を「魅せる」方法を模索するため広告会社に就職、WEB広告について学んだ。広告会社を退職後立ち上げたという事務所を訪れると、パソコンやカメラ、照明器具などスタジオ機材が所狭しと並ぶ。ここでWEBデザイナーやカメラマンとともに弓道具商翠山のWEBビジネス構築を模索している。SNSも駆使し海外に発信することで、世界中から弓道の道具や技術についての問い合わせが舞い込んでいる。取材中にも、彼の携帯のSNSアプリ「LINE」に台湾の弓道家から英語で弓具についての質問のメッセージが入った。

彼が今立ち上げているプロジェクトに「和道」プロジェクトがある。「弓道に限らず、その存在が忘れられつつある日本の伝統文化は多い。例えば、火鉢や湯たんぽといった道具」。 彼はそういった日本の伝統文化を「和道」として体系化し、ひとつのブランドとして発信しようとしている。「古くさくてなんだかダサく思われている日本の伝統文化も、スタイリッシュにデザインすれば、日本文化って意外にこんなにカッコいいんだ、と日本人も再発見するはず」。

そう滔々と語る彼には、悩みもある。

「伝統をこれからどう受け継ぐべきか。葛藤は、常にある」。そう語る彼には、5歳と3歳になる子どもが2人いる。「子どもには、伝統に縛られずに彼らの人生を自由に歩んでほしい、と思う」。

今後、彼の人生にずっとついてまわる「範士の息子」という肩書き。

平成の世に生きる武士は周囲の期待の中で揺れる想いを胸に、伝統文化のあるべき姿を狙い射る。その弓にぴんと張られた弦が、現代日本に雅な音を響かせる。

  • [*1] 「段位」とは別に与えられる、弓道における教育者としての免許。「錬士」の上に「教士」、その上に「範士」がある
  • [*2] 鹿皮を縫製して作られた手袋。親指部分の内側に用意された溝に弦を引っ掛けられるようになっている
  • [*3] 座って取り組む禅に対して、立って取り組む禅の意
  • [*4]他人の心情を深く理解すること。孟子が『公孫丑・上』の中で説いた言葉